音博の楽しみ方

音博の楽しみ方 その5
「ロッキンオン編集長・山崎氏から京都音楽博覧会を主宰するバンドくるりへ向けた寄稿」

岸田繁と僕

山崎洋一郎

おいしい料理を作る人は、ちゃんとした愛情と知性とお作法を身につけている人です。
例えばお母さん。
僕の母は料理が下手なので除外しますが、美味しいお料理を作るお母さんはきっと、家族に対する愛情も、食に対するまっとうな知性も、食材や什器に関するお作法も、たっぷり持っていらっしゃる人です。

では、「なんだこれ?!」というような、ただ美味しいだけじゃなくて、食べてるこっちの味覚や感性を揺さぶるような料理をつくる人はどういう人でしょう。
「え。これ麻婆豆腐? なんかすごい。美味い」
「なにこのキノコのソテー。やばくない?」
というような1品を作る人。

それは、変態です。

料理に限らず、お洋服でも家具でもなんでも、
そういうものを作る人は
変態なんです。

デビュー前にくるりの音源を聴かせてもらって、これは変態が作っている音楽だとすぐに感じました。
「東京」「虹」の2曲だけでしたが、明らかにど変態の音楽でした。
今のくるりの多様な音楽性の広がりを考えるとむしろロックの王道と言ってもいい2曲ですが、
普通の「美味しいロック」とは違いました。
ロックの快楽の基本はノーマルなセックスに非常に似ていて、性感帯をリズミカルに刺激して徐々に激しくなって最後にクライマックスに達してエクスタシーを覚えるという構造ですが、 くるりのロックはそういうノーマルな構造とは違います。

そういう音楽を作る人は変態に決まっています。

そしてデビュー後に行なった岸田繁2万字インタビューで明かされた岸田繁の半生は、やはり変態でした。(ここに改めて引用することは避けますが)。

ところで、変態とは何でしょうか。
美味しいお料理を作るお母さんと、「うわ何これ!」という1品を作る変態料理人とはどこが違うのでしょうか。

それは、抑圧された何かがあるかどうかです。

お母さんが家族にお料理をつくるときには真っ直ぐな愛情しかありません。
自分の中に抑圧されている何か、なんて味に込めたりはしません。
そんなもの込められたら晩御飯は恐怖です。

でも、「すごい1品」を作る料理人は、それを料理に込めるのです。
麻婆豆腐に、自分の中で抑圧されて解放されなかった何かを解き放つのです。
その独自性と複雑さと強度に、食べる人は「何これ? なんかすごい!」と圧倒されるのです。
変態の逆襲です。

くるりがデビューして15年経ちました。
岸田繁の変態性は一過性のものではなく、時代を超える普遍性があることが証明されたことになります。
そして、アルバムがリリースされるたびに、たまに飲みに行って話すたびに、
岸田繁の変態性は衰えるどころか増幅されているのを感じます。
抑圧されたものを解放しても解放しても、彼の中の抑圧された何かが「音楽にして解放してくれ」と訴えるのだと思います。
それが変態の業です。

最初は「疎外された少年の中で抑圧された何か」だったものが、デビューして「アーティストとして抱える抑圧」に膨らみ、「日本の音楽シーンが背負う抑圧」へ、そして東日本大震災以降、「この時代が抱えている抑圧」をも解放する何かを作品に込めようとしているのを僕は感じます。
ものごっつい変態です。

くるりのロックは時代と闘いません。
かと言って時代から逃げません。
時代から受ける抑圧を解放して、おいしい料理に変えるのです。

その新たな「すごい1品」が最新作だと、僕は聴いて思いました。

以上、新事務所設立記念・京都音楽博覧会開催祝いコメント「岸田繁と僕」(どこがや?)でした。

P.S.岸田くん変態変態言ってごめんなさい。

P.S.佐藤ちゃんはさらにもっと変態だと思います。

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