音博の楽しみ方 その3
京都音楽博覧会、多様な国旗の行き交う場所―音楽を通じた日常
松浦達
今でこそ、町御輿や地域振興の意味も込めて、各地で音楽イベントが行われるようになった。そこでは音楽のみならず、飲食店や地域の住民たちの賛同、同時に公共団体の許可、宿舎などがクリアランスされないと成立し得ない。著名なフジ・ロック、サマーソニック、RIJなどの来歴を思わずとも主催サイドの思惑と観客側、その周辺の環境条件はトレードオフにある。
初めての2007年の京都音楽博覧会の発表の際は個人的に無謀な試みだと正直、考えたのとともに、そのラインナップがいかにも、そのイベント名に相応しい世界諸国のアーティストが集まり、しかも、京都駅から歩いてすぐの梅小路公園という“近い”場所で行なわれるということに京都が持つややこしさ―つまり、景観、騒音、旧来の文化伝統を守る場所での結界を感じもしたからだ。しかも、その日はサプライズでCoccoの出演もあったものの、天候には恵まれず、出音も小さく、観ているこちら側も凍え、先を考えてしまうようなところがあった。
梅小路公園というのは、京都市民の憩いの場で、JRの京都駅からゆっくり歩いていても、15分、20分で着く。バスやタクシーを使うことができるし、最近では京都水族館もできたのもあるが、導線としてはブラっと寄り、和む公園に近く、何度も京都音楽博覧会に訪れても、会場内、つまりは公園内に入らない/入れなくても、その外でボーっと音を聞いている人たちに溢れていて、想えば、2009年に初めて石川さゆり女史が出たときは、近くの団地から皆、顔を覗かせて聞いていたものだった。
緩やか、穏やかに、くるりというバンドが京都という場所を大切にしてゆくように、自身の京都音博覧の愉しみ方は他の夏のイベントや音楽のライヴと変わってゆき、いつからか、近くの祭りを観に行くように、露店の並びを観に行くように、昼から夕方まで(音出しの規制のため、19時には音は鳴り止む。)をまったりと楽しみ、音楽や機関車の音、久しぶりの知己との談笑、周辺の家族や恋人や学生の声、他愛のない9月のいとまに、ほろ酔う贅沢な時間を確約されるものだった。最後方で、誰かのシャボン玉が飛び交う碧空を傍目に、音風景に揺られたレイハラカミさんの音、少し他のアクトと比すると大きかったベンチャーズの例のサウンド、毎年、違った選曲と思わぬ展開を繰り広げるくるりの背景を染める夕暮れから闇に染まる端境。アンコール・セッションで選ばれることが多い「リバー」、「宿はなし」などの慕情。いつも、梅小路公園で得てきたものは外部から参加しても弾かれることなく、また、内部にいても、京都との親和性とともに秋の長閑な空気、ときに急変する天気に併せた穏和な夏から秋への季節の変わり目に居合わせる、そんな感覚だった。
最近、くるりの岸田氏が自身の「東京」という曲に触れて、6月1日にツイートしていた、
“くるりの「東京」って、所持金と口座の残高合わせて500円くらいの時に、足立区の綾瀬で書いた曲なんよ。遠く離れた恋人のことがどうでも良くなったような気持ちになって、すごく不安になったけど、なんだか東京の夜風がそよそよと心を吹き抜けて行ってくれた時、とてもいい気分になって書いた歌。”
https://twitter.com/Kishida_Qrl/status/473147524820119552
とあったが、季節の変わり目、恋人のことを想いつつどうでも良くなる気持ちを撫でる風の色味が立体的にこのイベントから吹いてくる感じが時おりする。早めの時間に終演を迎え、その後、感想を「語り合う」余韻までがその日の前後は京都に満ちている。宝探しの人たちもふくめ。
別に、大した話をするわけでもなく、あのときのあの瞬間が良かったね、くらいのもので、あとは京都タワーのライトダウンに、外国人観光客の高らかな笑い声の中に消えてゆく。
京都音楽博覧会も、ほぼ皆勤賞のまま、今年で8回目を迎えるという。
マイナーチェンジや多彩なラインナップで毎年、来る人を京都の暖簾をくぐらせる、程よい敷居を保ちながら。筆者は幸いなことに、2012年の『坩堝の電圧』、その年の音博でも発売された公式旅冊子『HOW TO GO』で彼らの代表曲のひとつである「ばらの花」について微細ながら、筆を寄せさせていただきながら、今年はまったく、“ストレンジャー“として参加するつもりでいる。
なぜならば、初心に還ったかのようなレバノンのヤスミン・ハムダン、アルゼンチンのトム・レブレロなどまず、フジ・ロックでも少し味わえないアクトを観られるという好奇があるからでもある。以前に、ペルーの著名なアーティストとやり取りしていたとき、「その音楽性は日本でも受けると思うよ。」と返すと、「それでも、オファーがないの。」となった。オファーがある/ない、ポピュラー性がある/ないにかかわらず、変わらず、世界はとても、とても広くて、それでいて、すこしの背伸びをすれば、とても狭い。
京都音楽博覧会を毎年観てきて思うことは、音楽は混種し、新しい野生の花を咲かせてゆくということかもしれない。何かを「観ないといけない」という“MUST”よりも、目当てのアーティストとともに「観てみようかな」という“MAYBE”がその先につながってゆくイヴェントであり、そう思えば、くるりというバンドが“MUST”を要請しないものであることを考えれば、必然的に彼らが主催でこれまでのファン、また、新しいファンを巻き込み、続いている意味がわかる。色んな国旗が並び、しかし、その国旗たちがいがみ合わず、音楽言語の差異を越えて、参加者たちの息吹、記憶も歴史を形成していってる気がする。