音博の楽しみ方

音博の楽しみ方 その4

「京都音楽博覧会」推薦文

兵庫慎司

 たとえば。amazon.co.jpって……いや、amazonに限らず、ネットの通販等のサイトって、自分の好きそうな本やCDやライヴのチケットなんかをおすすめしてきますよね。前に自分が買ったものや、検索したものから推測して。
 自分の作品なんか検索したことないのに、ずばりそれをおすすめされて驚いた、と言っていた人を、私はふたり知っていますが(ホフディランの小宮山雄飛と伊集院光。前者はCD、後者は本)、私も、自分が編集した本や、自分がライターとして関わった本や、自分が解説を書いている文庫をすすめられて、「なんでわかったんだ!?」と、びっくりを通り越して、ちょっと怖くなった経験があります。
 でもあの、「いかにもあなたが好きそうなものおすすめ機能」、確かに便利だし、実際に役に立つけど、ちょっと、なんかなあ。そうでもあるんだけど、そうじゃなくもあるんだよなあ、と思うこともあります。

「見たくないものを見るってことが結構大事なのに。これなくなっちゃったら好きなものしか目にしなくなるんじゃないですかね。またなんか面白いこと考えてくださいよ」

 これは、2011年8月、ぴあの最終号に奥田民生が寄せたコメントです。さすがOT。かつて「今の若いバンドをどう思いますか?」と訊かれて「みんな曲がいい」と答え、次に「今の若いバンドに何かアドバイスを」と求められて「よくない曲もやれ」というメッセージを送った人だけのことはある。
 ぴあをパラパラめくってると,自分の興味ない情報も目に入ってくる。でもネットの場合、映画なら映画のサイトを見るし、音楽なら音楽のサイトを見るし、その音楽のサイトも細分化されてたりするし、だから興味ない情報が入ってこない、ということです。「好きそうなもの」「必要そうなもの」「いかにも自分がひっかかりそうなもの」だけすすめられて、そういうものだけかき集めて暮らしていくと、どうなるか。広がらないのです。思いもよらなかったものに出会ったり、それまで自分のアンテナに一切ひっかからなかったものに突然大感動したり、ということがなくなっていくのです。で、その「好きそうなもの」「必要そうなもの」だけに囲まれている生活って、それだけで心地いいし楽しいがゆえに、その外に出ていこう、知らないものを知り味わったことのないものを味わおう、という意志をじわじわと失っていく生活でもある、という気がするのです。自分も、かなりそういうタイプなので。

 延々と何を書いてるんだおまえは。と、そろそろ言われそうだが、くるりの京都音博に、2007年から2013年まで皆勤賞で通い続けている身として、あの場で一番楽しいことってなんだろう、と考えたところ、ここまで書いたような話になりました。
 つまり、その「amazon.co.jp的なるもの」の正反対なことを、延々とやり続けているのが京都音博であり、そこがこのフェスの最大の魅力である、ということです。
 バンドが主催するフェスはいろいろある。仲間のバンドを集めて行うパターン。近い音楽性のバンドが集まるパターン。あっと驚くブッキングに命をかけるパターン(氣志團ですね)。自分たちの好きな洋楽・邦楽のバンドたちをファンにプレゼンする場としてフェスを続けるパターン(アジカンの『NANO-MUGEN』)など。いろいろあるが、くるりのやりかたはもっとも極端だ。くるりファンにおなじみのアーティストや、「ああ、これなら普段自分が聴いてる範囲内」というアーティストも登場するが、そうじゃないのも洋邦問わずどんどん出てくる。その上ステージは1つだから、そのライヴを観るか、外に出て何も観ないか、の二択しかない。
 つまり、「これならくるりファンのお口に合うかしら」ではなく、「甘いのダメだろうが辛いの苦手だろうがとにかくまず食え」ということだ。ロックじゃないのはあたりまえ、時には音楽ですらなかったりする。2010年に登場した「京都魚山聲明研究会」がそれ。お坊さんが7人ぐらいステージに横一列に並び、お経ともホーミーともつかぬ声を延々と発し続ける、というパフォーマンスでした。
 ブッキングの傾向として、1回目からそういうフェスだったわけで、最初は正直「どうなのよ?」と思った。自分たちが好きだけど世に知られてないものを広めたい、というのはわかるけど、それ、ファンからしたら「興味ないものを観せられて聴かされる」ってことでもあるじゃん。それで楽しんでくれればいいけど、最悪の場合「ずっとがまんしながらトリのくるりを待ち続ける」ということになる人もいるわけで。ちょっとこれ、アーティストの自己満足なんじゃないか?
 という疑問は、2007年の1回目から消え始め、2009年の3回目でゼロになった。全然知らなかったり、興味がなかったり、ここで観なきゃ、ここで聴かなきゃ一生触れなかったであろう音楽に触れられることの楽しさを思い出させてくれる、つまり「逆amazonである」ことのよさを味あわせてくれる、そういうラインナップの、そういう内容になっているからだ、毎回。「逆amazonである」だけではなく、「逆amazonである」のあとに「ことのよさを味あわせてくれる」がくっついているところがミソです。つまり、自分たちの好きな、突飛なアーティストを並べれば、誰がやっても京都音博みたいになるかというと、決してそうはならないであろう、という話です。くるりのセンスと選球眼と戦略があってこそ、だと思う。 それは、遠い海外のアーティストに限らない。たとえば2009年に初登場した石川さゆり。京都音博がなければ、私、生でライヴを観ることは一生なかっただろうが、すごかった、ほんとに。観れてよかったあ、とつくづく思いました。
 岸田とOT、細野晴臣とくるり、石川さゆりとくるり、ベンチャーズとくるりなどのセッションが観れたのには興奮した。もっくんと達身、つまり元メンバーと一緒にくるりがステージに立った時は、目頭が熱くなった。というようなすばらしい瞬間もいっぱいあったし、これからもきっとあるだろうけど、一番のキモはその「逆amazonであること」だと思う。

 京都駅から徒歩15分、都会の公園というロケーション。9月下旬という季節。フェス翌日(今年は前日)に京都市内を使って行われる宝探し企画。そして、ここまで延々と書いたような、ブッキングにおける、ある種特殊な、でも大事な思想。どれもが、くるりしかやらないし、くるりがやる必然があるし、くるりがそれをやることをファンもファン以外も求めている、そんなフェスが京都音博だと思う。
 今年も楽しみにしています。(兵庫慎司)

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